それは、春まだ浅い3月の平日。
この日は、「あいの風とやま鉄道」に乗って、
朝日町泊までやってきた。
←応援、ありがとう。
平日には、町営コミュニティバスが、
駅前から各所に向かって運行している。
越中宮崎方面へ向かう路線は、
糸魚川市市振までつながっているという。
それは、乗ってみるしかないだろう?
この日は、富山の最果てまで
行ってみたかったんだ。
コミュニティバスは、
市振の集落の中を抜けて、
国道8号線をUターンする。
こんな感じに。
この辺りは、自由乗降区間なので、
泊から行ける一番遠いところで下ろしてもらった。
海沿いの高台からは、親不知海岸が見える。
坂を下って、集落に入る。
この辺りは、かつての街道筋。
江戸時代には、
通行の難関、親不知の西側に位置する
宿場町として栄えた。
海が荒れれば、人々は宿をとって、
天候の回復を待った。
入口には、「海道の松」。
天険・親不知への終点、或いは、
起点の目印となる立派な松が立っている。
もっとも、この松は、移植されたもの。
もともとここにあった樹齢200年の松は、
2016(平成28)年の台風で、
倒れてしまったのだという。
残念なお話だ。
集落に入ってすぐのところある地蔵堂。
なんだか、ちょっとおどろおどろしい
。
さらに進むと、
こんなに海近くなのに、井戸がある。
今は、金網が張ってあって、水は汲めないが、
この場所に井戸があるというのがおもしろい。
「弘法の井戸」というらしい。
弘法大師ゆかりの井戸である。
かつて、お坊さんが、
村はずれの茶屋に来て、
「水がほしい」と言った。
冷たい水がよかろうと、
茶屋のお婆さんは、
1キロも離れた赤崎から、
清水の水を汲んできた。
お坊さんがこれを憐れんで、
足下の土を杖で3度つついたところ、
この井戸が湧きだした。
そのお坊さんが、
弘法大師だったという。
この辺りの伝承である。
市振には、もう一つ、伝承の地がある。
『一つ家に 遊女も寝たり 萩と月』
日本を代表する俳人、松尾芭蕉が、
「奥の細道」の旅すがら、
市振にあった宿、桔梗屋に、
一泊した際に詠んだといわれる、
名句である。
芭蕉の句にあって、
何ともなまめかしさを漂わせるこの句は、
横溝正史のミステリー「獄門島」に登場して
さらに有名になった。
わたしがこの句を知ったのも、
「獄門島」を読んだ時だった。
当時、中学生だったわたしは、
「奥の細道」という紀行文の名も、
「獄門島」で初めて知ったからね。
そして、それ以後、
「奥の細道」や「松尾芭蕉」には、
不思議と親近感を感じるようになった。
芭蕉の俳句の素晴らしさを知ったのは、
さらに先のことになる。
「桔梗屋」は、大正時代の大火で焼けてしまった。
現在は、その跡地が残るだけである。
良寛和尚もこの地に一宿し、
『市振や 芭蕉も寝たり おぼろ月』
という句を詠んだという。
芭蕉の句と対比的で面白い。
さらに、市振の集落を進む。
明治天皇が行幸された際に、
小休止した場所、
などというところまで、
史跡として残されている。
こういう場所で一休みするだなんて、
どんな行程だったんだろうね。
「市振海岸」は、夏には海水浴場となる。
広々とした砂浜は、
プライベートビーチのようだ。
「市振漁港」は、
思ったよりも広々していて立派だった。
「市振関所跡」は、かつて小学校だった場所にある。
この地には、幕府の関所が置かれ、
人々の行き来を監視していた。
東からこの関を通り抜けた人は、
境川を越えて、
今度は、加賀藩の宮崎関を通ることとなる。
奥に見える巨木は「関所榎」と呼ばれる。
樹齢250年以上と推測され、
江戸中期以降より、かの地を見守ってきた。
この日は、自分も昔の旅人と同じように、
歩いて境川を越えてみることにした。
「えちごトキめき鉄道」の「市振駅」を
上から見下ろす。
「市振駅」は、2023(令和5)年、
国登録有形文化財に登録された。
完成したのは、鉄道が開通する4年前の
1908(明治41)年。
親不知トンネル建設の拠点として
使われていたらしい。
中は、改修されていて、
かなりきれいに現代的。
壁に掲げられた『市振観光案内図』は、
かなりの年季もの。
レトロな装飾としては素晴らしいが、
道路も鉄路も、全く様相が違う。
キャンプ場は、今でも存在するのだろうか。
ホームに張り出す屋根の造りは昔のまま。
長い年月、人々の行き来を見守ってきた。
『ランプ小屋』も、1908(明治41)年に完成した。
当時は、
トンネル工事用の燃料を貯蔵したらしい。
煉瓦で造られた堅牢な小屋で、
あと100年は、びくともしない感じだ。
さらに、富山方面に向かって歩くと、
見えてくるのは「道の駅 市振の関」。
ここでは、スイーツで一休み。
『ひすいスイーツ』は、抹茶プリンに
やわらかなホイップクリームがのっている。
このクリームがカップの半分を占めていて、
ふわふわとしてうまかったのだ。
ここには、国土交通省の施設も併設されていて、
親不知の道路整備の様子が、紹介されていた。
境川は、橋の架け替え工事中。
仮設橋を歩いて渡る。
富山新潟の県境を流れる境川。
「戦国自衛隊」は、何度も映画化されたSF小説。
冒頭で、自衛隊が演習を行う場所が描かれている。
その場所が、境川河口だったりする。
自衛隊の演習があるなんて、どれだけ広い場所なのかと、
初めて小説を読んだときには、思っていた。
実際には、この風景。
小説が出版された1974(昭和49)年には、
新幹線はもちろん、北陸自動車道もなく、
国道8号線だって、今よりはずいぶん細く
曲がりくねった道だったことだろう。
演習していた自衛隊の部隊が、
戦国時代にタイムスリップするところから、
この物語は始まる。
それを思うと、ここはタイムスリップするに
ふさわしい場所だったのかもしれないね。
では、県境を越えて、
越中宮崎へと向かおうか。
この日は、「あいの風とやま鉄道」に乗って、
朝日町泊までやってきた。
←応援、ありがとう。
平日には、町営コミュニティバスが、
駅前から各所に向かって運行している。
越中宮崎方面へ向かう路線は、
糸魚川市市振までつながっているという。
それは、乗ってみるしかないだろう?
この日は、富山の最果てまで
行ってみたかったんだ。
コミュニティバスは、
市振の集落の中を抜けて、
国道8号線をUターンする。
こんな感じに。
この辺りは、自由乗降区間なので、
泊から行ける一番遠いところで下ろしてもらった。
海沿いの高台からは、親不知海岸が見える。
坂を下って、集落に入る。
この辺りは、かつての街道筋。
江戸時代には、
通行の難関、親不知の西側に位置する
宿場町として栄えた。
海が荒れれば、人々は宿をとって、
天候の回復を待った。
入口には、「海道の松」。
天険・親不知への終点、或いは、
起点の目印となる立派な松が立っている。
もっとも、この松は、移植されたもの。
もともとここにあった樹齢200年の松は、
2016(平成28)年の台風で、
倒れてしまったのだという。
残念なお話だ。
集落に入ってすぐのところある地蔵堂。
なんだか、ちょっとおどろおどろしい
。さらに進むと、
こんなに海近くなのに、井戸がある。
今は、金網が張ってあって、水は汲めないが、
この場所に井戸があるというのがおもしろい。
「弘法の井戸」というらしい。
弘法大師ゆかりの井戸である。
かつて、お坊さんが、
村はずれの茶屋に来て、
「水がほしい」と言った。
冷たい水がよかろうと、
茶屋のお婆さんは、
1キロも離れた赤崎から、
清水の水を汲んできた。
お坊さんがこれを憐れんで、
足下の土を杖で3度つついたところ、
この井戸が湧きだした。
そのお坊さんが、
弘法大師だったという。
この辺りの伝承である。
市振には、もう一つ、伝承の地がある。
『一つ家に 遊女も寝たり 萩と月』
日本を代表する俳人、松尾芭蕉が、
「奥の細道」の旅すがら、
市振にあった宿、桔梗屋に、
一泊した際に詠んだといわれる、
名句である。
芭蕉の句にあって、
何ともなまめかしさを漂わせるこの句は、
横溝正史のミステリー「獄門島」に登場して
さらに有名になった。
わたしがこの句を知ったのも、
「獄門島」を読んだ時だった。
当時、中学生だったわたしは、
「奥の細道」という紀行文の名も、
「獄門島」で初めて知ったからね。
そして、それ以後、
「奥の細道」や「松尾芭蕉」には、
不思議と親近感を感じるようになった。
芭蕉の俳句の素晴らしさを知ったのは、
さらに先のことになる。
「桔梗屋」は、大正時代の大火で焼けてしまった。
現在は、その跡地が残るだけである。
良寛和尚もこの地に一宿し、
『市振や 芭蕉も寝たり おぼろ月』
という句を詠んだという。
芭蕉の句と対比的で面白い。
さらに、市振の集落を進む。
明治天皇が行幸された際に、
小休止した場所、
などというところまで、
史跡として残されている。
こういう場所で一休みするだなんて、
どんな行程だったんだろうね。
「市振海岸」は、夏には海水浴場となる。
広々とした砂浜は、
プライベートビーチのようだ。
「市振漁港」は、
思ったよりも広々していて立派だった。
「市振関所跡」は、かつて小学校だった場所にある。
この地には、幕府の関所が置かれ、
人々の行き来を監視していた。
東からこの関を通り抜けた人は、
境川を越えて、
今度は、加賀藩の宮崎関を通ることとなる。
奥に見える巨木は「関所榎」と呼ばれる。
樹齢250年以上と推測され、
江戸中期以降より、かの地を見守ってきた。
この日は、自分も昔の旅人と同じように、
歩いて境川を越えてみることにした。
「えちごトキめき鉄道」の「市振駅」を
上から見下ろす。
「市振駅」は、2023(令和5)年、
国登録有形文化財に登録された。
完成したのは、鉄道が開通する4年前の
1908(明治41)年。
親不知トンネル建設の拠点として
使われていたらしい。
中は、改修されていて、
かなりきれいに現代的。
壁に掲げられた『市振観光案内図』は、
かなりの年季もの。
レトロな装飾としては素晴らしいが、
道路も鉄路も、全く様相が違う。
キャンプ場は、今でも存在するのだろうか。
ホームに張り出す屋根の造りは昔のまま。
長い年月、人々の行き来を見守ってきた。
『ランプ小屋』も、1908(明治41)年に完成した。
当時は、
トンネル工事用の燃料を貯蔵したらしい。
煉瓦で造られた堅牢な小屋で、
あと100年は、びくともしない感じだ。
さらに、富山方面に向かって歩くと、
見えてくるのは「道の駅 市振の関」。
ここでは、スイーツで一休み。
『ひすいスイーツ』は、抹茶プリンに
やわらかなホイップクリームがのっている。
このクリームがカップの半分を占めていて、
ふわふわとしてうまかったのだ。
ここには、国土交通省の施設も併設されていて、
親不知の道路整備の様子が、紹介されていた。
境川は、橋の架け替え工事中。
仮設橋を歩いて渡る。
富山新潟の県境を流れる境川。
「戦国自衛隊」は、何度も映画化されたSF小説。
冒頭で、自衛隊が演習を行う場所が描かれている。
その場所が、境川河口だったりする。
自衛隊の演習があるなんて、どれだけ広い場所なのかと、
初めて小説を読んだときには、思っていた。
実際には、この風景。
小説が出版された1974(昭和49)年には、
新幹線はもちろん、北陸自動車道もなく、
国道8号線だって、今よりはずいぶん細く
曲がりくねった道だったことだろう。
演習していた自衛隊の部隊が、
戦国時代にタイムスリップするところから、
この物語は始まる。
それを思うと、ここはタイムスリップするに
ふさわしい場所だったのかもしれないね。
では、県境を越えて、
越中宮崎へと向かおうか。

































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