越中宮崎から海沿いを行く道から、家並みの方へとそれていく道があったんだ。これが旧道に違いないと、そちらの道へ入ってみたんだよね。
←いろんな富山が紹介されているから、見てあげてね。
しばらく行くと、こんな案内板を見つけたよ。

昭和52年に朝日町の史料に指定された句碑みたいだね。

1800年代はじめの文献には、この句碑のことがもうあるものとして書かれているのだとか。ざっくり、200年以上も前から、この場所にあるということだよね。
芭蕉が「奥の細道」を書いてから、100年ほどの間に立てられたことになるかな。その頃には、まだ、芭蕉がどんな人だったかとか、そんな噂話が、このあたりの有力者の間には残っていたのかもしれないね。

山あいから流れる小さな川があったよ。『笹川』っていうみたい。釣り人が糸を垂れていて、のどかな感じがしたな。

集落の中には、どーんと大きなケヤキの木がそびえ立っていてな。

このけやきにも、親鸞聖人とのゆかりがあるみたいだね。800年前、この木の下の石に腰かけて休んだって、本当かなぁ
。

このあたりの消火栓は、どれもこんなレトロなデザイン。

神社の入り口には、水準点が設けてあったよ。この神社、階段がずっと続いていて、かなり上の方にあるみたいだね。

こうして、お地蔵さんがあるもの、昔からある道沿いだからだな。


防災用のマップだけれど、道がわかりやすかったので写してみたよ。国道8号線を縫うように走っているのが、今、ボクが歩いている道。
このまま、8号線を越えて、下横尾公民館の前をとって脇子八幡宮の入り口へと、歩いて行くことにしたよ。

沿道には、昔ながらの造りの家が、今でもこうして残っているんだね。

そして国道8号線と合流。

ちょうど、トンネルの入り口と出会うようになっていたよ。

トンネル入り口脇には、雑草に埋もれた墓があったな。立派な墓だったけれど、今では、誰もお世話する人がいなくなってしまったのだろうか。

この後、道はさらに続くのだけれど、それはまた次回に。
しばらく行くと、こんな案内板を見つけたよ。

昭和52年に朝日町の史料に指定された句碑みたいだね。

1800年代はじめの文献には、この句碑のことがもうあるものとして書かれているのだとか。ざっくり、200年以上も前から、この場所にあるということだよね。
芭蕉が「奥の細道」を書いてから、100年ほどの間に立てられたことになるかな。その頃には、まだ、芭蕉がどんな人だったかとか、そんな噂話が、このあたりの有力者の間には残っていたのかもしれないね。

山あいから流れる小さな川があったよ。『笹川』っていうみたい。釣り人が糸を垂れていて、のどかな感じがしたな。

集落の中には、どーんと大きなケヤキの木がそびえ立っていてな。

このけやきにも、親鸞聖人とのゆかりがあるみたいだね。800年前、この木の下の石に腰かけて休んだって、本当かなぁ
。
このあたりの消火栓は、どれもこんなレトロなデザイン。

神社の入り口には、水準点が設けてあったよ。この神社、階段がずっと続いていて、かなり上の方にあるみたいだね。

こうして、お地蔵さんがあるもの、昔からある道沿いだからだな。


防災用のマップだけれど、道がわかりやすかったので写してみたよ。国道8号線を縫うように走っているのが、今、ボクが歩いている道。
このまま、8号線を越えて、下横尾公民館の前をとって脇子八幡宮の入り口へと、歩いて行くことにしたよ。

沿道には、昔ながらの造りの家が、今でもこうして残っているんだね。

そして国道8号線と合流。

ちょうど、トンネルの入り口と出会うようになっていたよ。

トンネル入り口脇には、雑草に埋もれた墓があったな。立派な墓だったけれど、今では、誰もお世話する人がいなくなってしまったのだろうか。

この後、道はさらに続くのだけれど、それはまた次回に。
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